PCやスマホを使っていて
SNSを利用している人も多いだろう
乗り物でスマホをのぞく人のちらりと見える画面が
Facebook Twitterであることも多い
何かで出会って話す機会があると
「○○やってますか?つながって下さい」となることも多い
反面
「怖くてやってない」
「勇気がない」
と敢えてやらない選択をしている人もいる
わたしも3つほどSNSを登録し使っているが
時に楽しく時に感動し
複雑な感情を抱いたり
見たくなかったりする
「会いたくない人に見つかってしまう」
「うっかり書いたことで大変なことになった人を知っている」
言ってる意味はわかる
ただわたしは「会いたくない人」には
今のところ会っていない
わざわざ昔の同級生や職場の人を探すこともない
今の自分が望む人とつながり
そこに一応ルールらしきものもある
ブロックやミュートという手もあるので
つながりたい人とだけつながればいいのだ
「会いたくない人に見つかったらどうしよう」
そういう思いから出発するとそうなるだろう
「素敵なひとに出会いたい」
そう思ってやってみればそんな出会いが訪れる
「うっかり書いたことで大変なことになる」
これは十分可能性としてある
一定の有名人が書いたことに様々な意見が集中し炎上は
よくあるらしい
不特定多数の人が見る(見る人の範囲を自分で決められるが)
それぞれ別の人間でそれぞれの意見がある
書いた人の意図が正しく伝わるとは限らない
そして実際に会う訳ではなく
ニックネームだったり偽名だったりするから
普段は言えないことも書けたりする
そこが怖いところで
思わぬ注目を浴びおそろしい勢いで広がり
気がついたら自分の意図から大きく外れ手がつけられない
人は顔や名前が出ないとエスカレートしやすい
そして多数に紛れて流されてしまいやすい
今でも忘れないことだが
小学校5.6年の担任の先生が「集団心理」について
何度も何度も語ってくれた
自分の頭で考えること
誰かがやっているからそうする
みんなでやれば怖くない
それは恐ろしいことだよと先生は妙に熱心だった
やがて中学で学校が荒れに荒れ
先生の言う意味がわかった
SNSとうまくつきあいたいと思うが
ちゃんと読まずにあれこれ言ってくる人というのが必ずいる
また書き込まれると優先的に表示されるのか
さらに人の注目が集まる仕掛けになっている
言葉や表現は誤解を招きやすい面を持っている
人は自分のいいように解釈する
書いた人をどう思っているかで受け取りも変わる
だから普段と同じようにネット上でも
自分の言動には気をつけることは最低限必要だ
それは「言いたいことを我慢する」
「当たらず障らず」という意味ではなく
自分を全く知らない人が読んでも
言いたいことが伝わるように書く伝えることだ
わたしは他にもブログを書いている
そこで1年と少し毎日のように書いてみて
もやもやと捕らえ所なく感じていた過去や
今感じていることを言葉にする=ブログをやってみて
とてもいいものだと思った
自分のことなのによくわからなかったことが
文字にして書いてみることで
どこか客観的に「あ〜そうか!」とわかるようになったから
だからSNSもそんな自分の思いを表現し
自分に合う人に出会う場だと思っている
いろんな人がいる
それを知るだけでも自分のための勉強だ
自分と違う考えや意見に出会った時に
日常でもよく感じるが
本当に私たちは議論が苦手だ
冷静に話し合う、という当たり前のことができず
感情的になりがちだし
「同じでないことをなんとかしよう」としてしまう
友達や知人と意見が違って気まずく感じる
誰にでもあることだが
「違って」当たり前なのだ
気まずく感じなくても
「あなたはそうなんだね わたしは違ってこう思う」
これでいいのだ
みんなと同じで安心する
それは要するに集団心理であって
その安心は最も怪しいものだと思う
私たちは自分の頭で考えたり調べたりできる力を持っている
だから多数に付いておけば安心だとか
あの人が言ってるから間違いないとか
そういうのは自分で考えていない
ニックネームでどこの誰だかわからない
よく読みもしない、そして悪意に満ちた言葉で書き込む
それは意見と言わない
議論にもならない
そのことに便乗して
何か憂さ晴らしをしている?
時にそんな印象を抱く
このことがどうしてそんなにエスカレートするのだろう
そう感じることも多々ある
それはそのことはフェイクに過ぎず
実は別のことに反応しているのだと思う
反論は冷静に相手にわかるように伝える
公の場で相手を貶めるためにするのではない
このことを肝に命じながらSNSを使っている
誰かが元気になるような
自分のしあわせにつながるような発信をしたい