今はデジカメで
フィルムの枚数制限もなく
おまけに美肌加工や赤目防止モードなど
機能満載
スマホの普及で
みんながぎゅっと集まっての
自撮りモードでの撮影
楽しまなくっちゃ損な感じで
手軽に写真が楽しめます
もし、今わたしが
10代20代の多感な年頃だったら
きっとみんなでワイワイやれなかった
だろうなー・・・
ハタチぐらいの時
やたらめったら写真を撮っていました
みんなで集まると
どこかへ行くと
けど「ただ写していただけ」
「撮りたい」と
気持ちが動くわけでもなんでもなく
ただ写しては現像に出していました
どんな顔して写っているか?
太って見えないか?
そんなことばかりを気にしていた
ような記憶があります
たいてい変な顔をしていて
気にいる写真って
あんまりなかったように思います
卒業アルバムの写真でも
意識しすぎて
全然イケてない感じ(悲)
要は自意識過剰なのですね
変な顔をして写っている写真を見ると
「もうちょっとマシやのに」
「鏡で見るわたしはかわいいのに」(笑)
去年の暮れに
「恥しがりやさんのための写真サービス」
についてラジオでお話しさせてもらう機会に恵まれ
なんでわたしは人を撮りたいんやろう?
なんで「恥しがりやさん」なんやろう?
あらためて見つめ直していました
ラジオの後も
自然に浮かんでくるテーマでした
不思議と
「恥しがりやさん」にフォーカスしていることに
間違いはない!という事実がやってくるし
わたし自身にも迷いやブレがない
やっぱり
これから踏み出そうとする人を撮りたい
今、うまくいっているキラキラな人でなく
これからもっとキラキラしそうな人
なんでやろう
人は変わる
って知ってるからやろうナー
わたし自身が大きく変わってきたから
誰もが今より良くも悪くも変わる
可能性は”0”なんてことは絶対ない
いろんな経験を経て人の顔は変わってゆく
美人じゃなくても男前でなくても
魅力的な人はいっぱいいる
魅力的な人の共通点って
堂々と今の自分で生きてる
その在り方なんじゃないかと思うのです
在り方って
自分のやってることを
数字やモノを並べて見せつけること
じゃなくて
「私はこういうことを思って
こういうことを大切に生きています」
と自分の言葉や行動で伝えること
じゃないかと思います
言葉と行動とご本人とがしっくりくる
そういう人に魅力を感じます
だから「撮りたくなる」
人こそ わたし撮りたいにゃわ
気づいて一眼レフを手にしました
わたし自身が
いろんな人に会って
いろんな経験をして変わってきたように
その人だってその人が思う方向に
変わってゆける
写真がひとつのきっかけになるかもしれない
その人も知らないいい顔を見せることは
その人を応援すること
わたしも友達の言葉や出来事
タイミング、場所
いろんなことに励まされてきた
間接的に
そして直接的に
恥しさより楽しさ
自分をひらいてゆくヨロコビ
それを知ったから
恥しがりやさんから変わったのかな
わたしにとってそのプロセスは
とても愛しく大切なもの
だからわたしも
こんな思いに
共感する人を応援したいのです
仕事の成果や子育てとか
なかなか目に見えないものですね
数字が欲しいのではなくて
「これでいいねんナー」
って確かめたい時がある
そんな時に
仕事を始めた頃の自分のピュアな想いや
こどもが生まれた時のことを思い出すと
リセットできたりしませんか
記憶って五感でできてるから
匂いや手触りだったり
音楽だったり色だったりする
写真って視覚なので
そのきっかけから芋づる式に
ありありといろんなことを思い出す
胸がキューンと切なくなったり
ぼわーっとあったかくなったり
涙がこぼれたりする
その写真を見たあなたを
励ましたり背中を押したりする
目に見えるもの・・・それが写真
わたしの技術は
十分とは言えない、と思う
けど
わたしは
もしも偽った状態で
カメラの前に立った人がいたとしたら
わかってしまう
そしていくら時間をかけても
いくら枚数を撮っても
納得する写真は撮れないと思う
なので
「この人はわたしが
撮らなくてもいいんじゃないか」と
感じたらお断りすることにしている
良さげに見える写真を撮ることが
わたしのしたいことではないから
わたしのしたいことは
勇気を出して覚悟を決めて
カメラの前に立とうとする
本気の魅力が溢れ出ている写真を撮ること
ただ人の顔を撮るのではなく
言われたように撮るのでもなく
ときめいたわたしの気持ちが
見てるひとにも伝わるような
そんな「撮るひと」で在りたい
2016年の春から
人を撮らせてもらうようになった
今のところのわたしの正直な思いです
次回vol.3で
具体的にもっと突っ込んで
照れずに
写真を撮ってもらえる・自撮りができる
ようになったワケを
書きます
自撮り〜♬ 後ろは家族