「書く」ことで始まること

経験して感じたことを言葉にしていますか?

 

 

誰もが、ひとりの人として

役割(夫、長女、母、課長、先生など)の上で

日々いろんな体験をしています

 

 

自分と同じように考えて感じる人は

どんなに仲が良くても

血の繋がりがあってもなくても

ひとりもいないので

 

 

誰かと接すると

それがきっかけになって

会話が生まれたり新たな関係ができたり

 

 

そのちがいが行き違いを生んだり

トラブルになったりします

 

 

何にでも言えますが

プラスもマイナスもあります

 

 

素敵な事はそれで良いのですが

行き違いやトラブルを防ぐために

ルールやマニュアルが存在しています

 

 

 

 

 

人間の脳は

思考を外に出さないと(言葉にする)

何を認識しているのか自分でもわからないそうです

 

 

誰かとおしゃべりしていて

何かを書いていて

 

 

自分の口から出た言葉や書いたものに

「え!こんなことを考えてたのか」と

驚いた経験はありませんか

 

 

毎日毎日、脳は膨大な情報を処理しています

「これは大事。忘れないように。」と意識したり

強烈な何かがないと情報は流れてゆきます

 

 

だから

「書く」「話す」アウトプット

これが記憶のフックになったり

ごちゃごちゃの整理になったり

納得!終わったこと、という「処理」になります

 

 

 

 

 

 

 

わたしは本を読んだら感じたことを本のSNSに

映画はこのサイトにアウトプットしています

どちらもチョコっとですが

 

 

でも、「書く」ように心がけてからは

記憶に残りやすくなったように感じます

 

 

そして書こうとする時に

あらためて何が心に残ったか?がヒントになるので

本ならパラパラ見直したり

映画なら公式サイトを見たりして

記憶を辿って感覚を思い出します

 

 

本のSNSで同じ本を読んだ人の感想や

つながりのある人が興味ある本を読んだ感想など

ザッと追った時に

 

 

限られた字数なのに

あらすじを延々書いてあると読むのをやめます

 

 

映画の感想もそうです

有名人のコメントを見たら

あらすじを書いている人はひとりもいない

 

 

けれど、そのコメントで

益々その映画に興味が生まれたり

そのポイントを覚えていて映画を観てみたり

ただ「観る」だけでない「観る」になります

 

 

あらすじが大切なのではなく

その人がどういうポイントでどんな気持ちになったのか?

そこにその人が表れ

感心したり納得したり気づきを得たりします

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、勉強会やセミナーで

メモを取るのは意味がない

むしろ何を感じたかをメモした方が良い

という話を聞いて

 

 

その時はそれが本当のところ

何を意味するのかわかりませんでした

 

 

今、それがわかります

メモを取る=あらすじを書く

感じたことを書く=学び(経験と照らし合わせる)

 

 

あらすじは誰が書いても同じ

感想や感じたことは、みんなちがう

明らかにちがうものをシェアした方が

おもしろいのです

 

 

例えば、勉強会で「AはBです」と

講師がホワイトボードに書いた、とします

レジメに書いてあってもメモする

 

 

その作業に没頭するあまり

講師が話したことを聞き逃したり

疑問を感じるヒマもなく

自分の考えとの違いも気づかない

 

 

参加した→何を学んだ?

えーと・・・って事になりがちです

 

 

おもしろくなかった

参加しなくても良かった

と感じたとしても

 

 

どういうところが?

何がどうおもしろくなかった?

と考えを進めると

 

 

損した!ではなく

こういうのは合わない、とか

わたしは考えが違いすぎると入らないんだ、とか

新たな自分を発見できる

 

 

言葉にする

これを面倒でも

うまく言葉にならなくても

やってゆくこと

 

 

それが必ずプラスになると

わたしは何度も経験しています

 

 

 

 

 

反面、矛盾したことを書くことがあります

理由が説明できなくても、感じたままで良い

 

 

「なんとなく気が進まない」

「イヤだ」

で、断わるのもアリ!と

直感的に行動することを勧めてもいます

 

 

それが後に言葉になることもある

答えは後でわかることもある

 

 

今、言葉にならなくてもいい

 

 

だけど言葉にする意識を持つと

「あー、実は寂しかったんやなぁ」

「こっちの方が大事なんや」

と、感覚の奥にあるものに気づけます

 

 

それと、断る時に言葉で伝えますよね

「ごめん、行かれへんわ」

「やめとくー」

 

 

その時どんな言葉を使っているか?

それも注目です

 

 

やたら言い訳をしていたり

「ごめん」を連発していたり

なぜそんなに言い訳したり謝るの?

 

 

ここに注目しても

意外な事に気づいたりします

その人は本当に友達?

断るのが後ろめたいのはなぜ?

 

 

 

 

 

 

わたしはずっと

何でも「正解」があると思っていました

 

 

「正解」から外れているから

責められたり悪く言われたり

当たり散らされたりするんだと思っていました

 

 

けど、ここ数年でわかったのは

万人に当てはまる正解などない

 

 

例えば、ワールドカップで盛り上がるラクビー

今、楽しまないでどうする!でしょうが

わたしはニュースやSNSで情報入れても

ゲームを見ようとか観戦に行こうとか全然思わない

 

 

だけど友達はゲームに感動して

泣いたり飲みすぎたりしてる

選手の顔と名前が一致してる

 

 

ハイ、どっちが「正解」?

 

 

・・・・・

 

 

どっちも、それ以外も「あるある」よね?

これは許せない、と言う人がいたとして

それは「その人の考え」

そして「時と場合」もある

 

 

だから「自分が感じたままで良い

というのが、わたしのスタンスです

 

 

「普通、こうするもの」みたいな所謂”常識”は

これまた育ってきた環境や周りによって

みんなバラバラ

地域性があったりもします

 

 

だから「自分がおかしい」とか「間違っている」とか

すぐに思うのは、それこそストレスの元

 

 

「わたしは〇〇だから▲▲だと思う」

と言葉にして相手に伝えてみる

「いや、わたしは××だから〇〇だと思うよ」

じゃあ、どうする?という話になる

 

 

それで良いのだと思います

主張の強い人が、経験の長い人の意見が

いつも正しいわけではない

 

 

ちがいを出し合って方向性を見出す

それが大切なんだと思います

 

 

それが面倒がられる慌ただしい世の中ですが

自分の意見を言わないでいて

後でモヤモヤ、後で怒りがフツフツという経験

ありませんか?

 

 

わたしはイヤほどあります

自分の考えた通りにならなくても

勇気を出して発言できた事で

スッキリしたんじゃないかと思うことは山ほどあります

 

 

 

 

 

言葉にする

アウトプットする

 

 

それが思考を深める

それが人との関係をつくる

それが自分の知らない自分を知る

 

 

だから「書いて」欲しいと思います

自分は何を言いたいんだろう?

そこにフォーカスして欲しいと思います

 

 

うまい、ヘタじゃなくて

どれだけ思いや考えを外側に伝えられているか?

かみ合うコミュニケーションが取れるか?

こころが通い合うか?

 

 

だから、書いてみよう